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お客様が自分自身(わたし)を肯定でき、美容師がサステナブルに働けるサロンへ

株式会社オーバーランド代表取締役 伊佐寛さん

――新サロン「I」のコンセプトについて教えてください。

「Overland」で美容師として独立して8年半になります。 僕自身もお客様も年齢を重ねて、生活環境や価値観、ライフステージが変化してきたことを感じるようになりました。 簡単に言うと、「みなさん、いい大人になってきたんだな」という実感です。
そこで、「大人が通うサロン」というイメージを持つようになり、もっと地に足のついたリアリティと、特別感のある空間をつくりたいと考えました。

自分自身を「大人になった」「変化した」と自覚する機会というのは、そうありません。でも、美容室に行くことで実感できたらどうだろう――そこから浮かんだキーワードが「I」(アイ)、もっともシンプルな一人称である「わたし」という意味です。

現代は、あまりにも情報が飛び交いすぎていて、ともすれば自分を見失いそうになることもあります。
そんな日々のなか、美容室での体験を通して「これが本当のわたしなんだ」「いつもの自分に戻れた」「わたしにはこういう所があるんだな」というふうに自分自身を見つめることができたら、それは、シンプルだけれど特別な時間になるだろうと思います。

「髪を美しくする」「気分転換する」ということ以上の、その人自身のコンセプトを見いだすことにもなるでしょう。このような想いを「I」というサロン名に込めています。

 

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シンプルな一人称「I」(アイ)に込めた「わたしの価値観」

――「Overland」8周年となった2020年4月には、法人化され、株式会社オーバーランド代表取締役となられました。伊佐さんにとって2店舗経営の船出ですね。

独立したからには、サロンを大きくしていきたいという気持ちはずっと持っていました。
ただ、「I」に関しては、いろんな方向性を考えていった結果、単なる事業拡大というようなものとは少し違いました。

今回もっとも重要視しているのは、一緒に働いていく人たちとの環境を、より良くつくっていくということです。
「I」というコンセプトは、まず第一に僕自身のことでもあります。
個人事業主であった僕は、もし働くことができなくなれば、当然ながら収入が途絶えます。その先はどうやって生きていくんだっけ、そんな漠然とした、だけど無視できない課題がずっとありました。 幸い、僕には「Overland」という店があります。そこを活かすしかないだろうと考え、当初は一人でやっていた「Overland」の空いた席に、フリーランスのスタッフに入ってもらうことになりました。

その後に起きたのが、「老後2000万円問題」です。 僕は、2000万円も貯められないし、株も不動産もわからない。地道に髪を切るということをやっていくしかないという自分自身のあり方を、見つめなおすきっかけになりました。そして、将来というものをもっとリアルに考えたのです。
そこから「仲間と一緒にやっていこう、そのための環境を整えよう」という結論に発展してゆきました。


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――それが「Overland」を現在のフリーランスのスタッフに任せて、ご自身は新サロン「I」で新たにやっていくという形態なのですね。

そうですね。美容師は、会社組織に所属する人、フリーランス、そして僕のように自分の店を持つ個人経営者に分かれますが、弊社は、経営者である僕とフリーランスのベテラン美容師たちというチームです。

2店舗展開にあたり、「Overland」は、基本的にはフリーランスの彼らが運営に責任を持ち、僕は、経営者として30%程度絡むという形態をとることにしました。それは、もちろん彼らの収入にも反映されていきます。自分たちの努力次第で、さらにスタッフを入れることもできるし、円滑に回せるようになれば、手取りも良くなる。そうなれば、将来的にも安心できるよねとも話しています。

フリーランスの美容師たちは、みんなどこかに「独立して自分の店を持ちたい」という夢や、思いを抱いているものです。でも、状況が整わなかったり、借金をしてまで踏み出すのは怖いという気持ちがあったりして、誰もが実現できるわけではありません。そして、立場がとても不安定です。
そういったフリーランスの美容師たちの立場、そして僕自身の抱える課題に対する答えが、今回の形態です。

「Overland」を担う本人たちも、完全独立ではないけれど、70%はサロンを任されて、単なるシェアサロンなどではなく、自分たちで運営し、不労所得が得られる。そこにやりがいを見いだせるでしょうし、それは技術や接客の面にも反映されてゆくだろうと考えています。


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――経営者としては、かなり譲っているようにも見えます。伊佐さんご自身が稼ぎたいという感覚は、あえて抑えたのでしょうか?

もちろん僕だって、もっと稼いで裕福な暮らしをしたいという気持ちはあります。
自分でも、こんなのは偽善ではないかとか、他人に分け与えていないで自分の年収だけを極めていくほうがいいのではないかとか、迷いもしました。けれど、やっぱりそこが僕の結論にはならないんですよ。

こんな実話をTVで見ました。
行列のできるある人気のパン屋さんが、ものすごく儲けて、外車を乗り回し、タワマンの最上階に住むという、絵に描いたようなお金持ちの暮らしを送っていました。ところが、ある時、「自分はこんなことをしたかったわけじゃない。おいしいパンを作ることが自分の生きがいだったじゃないか」とパン職人たる自分の価値観を思い出し、人気絶頂のうちに閉店してしまうのです。
そして、山に籠って工房を構え、ただパンづくりに打ち込む――そこに、話を聞きつけた人々が、またパンを買いに来るという話です。

僕はこのパン職人さんの心境に共感します。タワマンに住んでみたい、外車だって乗り回してみたい。本当によくわかります。僕なら、趣味の写真にもっとお金をつぎ込んで、ライカのカメラを2台首からぶら下げて、日がな写真ばかり撮って暮らしてみたいですから(笑)。
だけど、それを実現したところで、やはりなにも満たされないだろうなと想像できるわけです。財布を満たしても使いきれないだろうし、明日死ぬかもしれない。それよりも、もっと違うものを満たされたいという価値観が僕のなかにはある。

僕にとって、人生は「仕事」と同じことです。つまり、美容師として生きていくこと。この生きがいを見失いたくはありません。そのことを、今回の新店舗計画の中ではっきりと自覚しました。
自分自身が実りある人生を続けてゆくためのひとつの計画としても、やはり、自分一人が儲かるような道ではなく、仲間と一緒にやっていくことで、一日でも長く美容師として働いていけるような道をつくりたい。そんなロングスパンで人生を考えたいのです。


価値観の合う人々と、より良い状態を持続していけるサロンへ

――人生全体における価値とはなにかを考えた上での経営ですね。

フリーランスの美容師がサステナブルに仕事を続けられるサロンを作りたいですね。長く持続していけるような環境をつくりたいという感覚でもあります。そのためには、大成長を目指すよりも、価値観の合う人たちと、より良い状態を維持できるようにしていきたい。

昔の美容室というのは、店のオーナーがスタッフを育てて、ある時期になると自分のお客様をスタッフたちに任せて、自分は現場を退き、経営するというスタイルが主流でした。そして、雇われているスタッフたちは、それほど良い待遇でもないのに、「与えて下さってありがとうございます」と疑問も持たずに働く。
僕も若い頃はそうでした。ただ憧れの店で働けるということが嬉しくて、給料や待遇、将来についてはあまり気にしない人も多いものです。

しかし、今ではもうそのような経営図式は成立しなくなってきました。
「それならフリーランスでやります」という道がありますし、若い世代は、もっと考え方が変化しているでしょう。その点から考えても、やはり、経営者一人が儲かってしまうような古い経営はしたくありません。

それに、経営する側、雇われる側と分かれてしまうと、ほんのちょっとのところで意識が違ってきます。日々の仕事においてなにが良いことなのか、どうすればレベルが上がるのかということを、自分自身で考えているか否かの差が出るからでしょう。それはお客様にも伝わるものだと思います。

フリーランスでやっていたのに、いつの間にかサラリーマン化してしまうこともあります。発注もお客様のケアもすべて自分でやるなんて大変だな、それなら勤めておけばよかったと考えてしまうフリーランスも結構いるように思いますね。

僕は、「大変だ」と捉えてしまうその部分を、「やりがいがある」と感じられるような人を育てる美容室をつくっていきたいと思っています。そのために経営者というポジションがあるわけですし、この立場から、どう環境をつくっていくかをひとつの仕事にしていきたいですね。
そして、こういった僕自身の意識もまた、新サロン「I」という空間において、お客様に伝わってゆくのではないかと思っています。


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女性が幸せな未来を想像しながら働ける場

――新サロン「I」に加わられた新しいスタッフの方について教えてください。

僕と同年代の女性美容師で、彼女はお子さんを育てるお母さんでもあります。女性として、生きがいを持って働くことができて、自分のお客様を継続的に素敵にしてさしあげられる、それが実現できる環境を作ってあげたいと思っています。

美容業界に限らず、日本には、子育てをしながらもっと働きたいという女性がたくさんいるはずです。でも、あきらめて辞めてしまうという現実もあります。僕は、仕事に関係なく、女性には笑っていて欲しいと思っているんです。女性が笑顔でいられない国はダメだとも思っています。
「I」は、女性が幸せな未来を想像しながら、楽しく働ける場にしていくつもりですし、そんなスタッフの姿が、同じような境遇にいらっしゃるお客様にとっての、ひとつの希望になればとも願っています。

美容業界では、「生涯顧客」という言葉が使われます。お客様と生涯お付き合いしていく。学生だったお客様が社会人になり、結婚し、お母さん、お父さんとなり、そのお子さん、お孫さんの世代に渡っても髪を切らせていただく、というロングスパンでお客様と向き合おうという考え方です。
「I」と「Overland」がそんなふうになればいいなと思っています。

人と人との関係性が希薄な時代ですが、決して、コンビニエンスな美容室ではなく、美容師からも、お客様からも、お互いに踏み込んだ信頼関係を築いていけるような、そして、そのなかで「わたし」を実感し、自分を肯定できるような時間を過ごせる美容室として、これから育ててゆくつもりです。

(聞き手・構成/泉美木蘭)



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